marginal62の書籍レジュメ化ブログ

はじめまして、marginal62です。訪問いただきありがとうございます。ここでは、自分が読んだ書籍を自分なりにレジュメ化したものを掲載しております。専攻している法律系の書籍が中心となりますが、その他にも気になったものはレジュメ化していきます。レジュメ化する趣旨は、自身の学習の過程をついでに発信してしまおうというものです。これを見てくださった方の学習等にも役立ち、また、コメント等を通じて情報や意見の交換ができれば、なお嬉しいです。各種資格試験にも挑戦しております(法律系)。その経過も記事にしていきます。

トマス・ホッブズ (海の怪獣)『リヴァイアサン』

こんばんは、marginal62です。

今日は、久しぶりに全休で、台風後により天気もよかったため、しっかり家で過ごしました(笑)

今回は、トマス・ホッブズの『リヴァイアサン』を軽くまとめてみました。

ちなみに、リヴァイアサン(levaiathan)とは旧約聖書ヨブ記第40・41章に出てくる海の怪獣のことで、これは秩序の象徴です。陸の怪獣で無秩序の象徴であるビヒモスに対比されます。

 

 「自然状態」とはなにか。これについてホッブズはその著書「リヴァイアサン」の序説においてこの問いに関する要素がある。それは、神の被造物である自然の中には神が世界を創造し統治するワザが秘められており、人間はそのワザの模倣である人間の技術を用いることによって、人工的動物たる時計を造り出すことができるということである。つまり、国家というのは人間の技術により人工的に造られたものであって、自然的なものではない、そのため造り変えることができるという思想である。したがって、自然に人工が対置されるという自然法思想に特有な思考の枠組みが存在していたのである。

以上を前提にホッブズは、人間は本来、心身の諸能力において互いにそれほどの相違はないという意味で、競争関係にあり(相互の競争関係)、また、互いに心身の諸能力においてほとんど違いのない競争関係にあれば、自己保存(自己の生命・身体の維持)という目標達成においても互いに競争関係となるため、そこから相互不信の関係が発生するという(相互不信の関係)。ここにいう関係は単なる相互不信の関係ではなく、この相互不信から自己を守るためには先手をとり、相手の人格までをも支配する、すなわち相手を奴隷化することも自己保存を理由に正当化されるのである。さらに、ホッブズは人間には生まれつき自然の権利があるという。つまり、人間は本来、自己の生命を自ら維持するために自分の力を用いることができるといい、近代の自由な人間はだれしも、身体・人格の自由を有するという。他方、このことは私的自治の原理こそが人間が生まれつき持っている権利であることを意味する。その意味では、相互不信から身を守るためとはいえ、相手の人格を支配するというのは同時に、相手の持つ自然の権利を否定することになる。したがって、人間の自己保存の欲求は究極的には、こうしたことさえも正当化してしまうのである。

さらに、人間は自らの生命・生活を維持しようと他人の力をあてにせずに自分だけの力で努力するため、自分自身に対し少なからず誇りをもって生きている。これは、自由な人間の本来的な姿である。しかし、競争と相互不信の関係の中では、そうした自分の努力が正しくは評価されていないと感じる。そのため、最終的には暴力によってでも自分に対する正しい評価を求めるのが自然的人間であるという。そうであるから自然状態の人間には、競争、不信、誇りといった争いの原因が内在しており、よって争いは避けがたいものであるという。

 それゆえ、自然状態は必然的に互いに争う戦争状態に移行する。そして、人々はこの戦争状態に入ってはじめてその不都合さに気が付く。その最大の不都合は、人間本性・自己保存の欲求に従うことでその否定・死の恐怖をもたらすということだ。もう一つの不都合としては、自然状態での自分本位の正しさの観念により、公共性という意味での正義の観念が欠如していることである。この二つの不都合は情念と理性によって回避することができる。つまり、戦争状態から平和に向かわせる諸情念は、死の恐怖や快適な生活に必要な物事に関する意欲であり、それらを自らの勤労によって獲得する希望であるため、人々は確かな運動を始めるのである。さらに、人々は理性を働かせて自然状態にはなかった正義の判定基準である法たる自然法を制定するのである。

 しかし、自然法が制定されるだけでは意味がなく、人々の約束である自然の権利の譲渡・社会契約が必要である。自己保存の欲求を保障する自然の権利は法の制定に同意するという対等な関係の下での相互契約を締結することで、人々の所有権に移転する。

 そうであるにしても、自然法が確実に守られる保障はない。そのため、人々が制定し同意した法を守らせ、守らない者には処罰を強制できる法の執行力が必要である。また、法の支配する近代国家において、その執行力は人々から見て共通なものでなければならない。さらに人格には自然的人格と人為的人格がある。前者は、人間が生まれつきもっているものである。これに対し後者は、あくまでも人為的に創造されたものである。人為的に創造された法の支配する近代国家は法人であり、その人格を代表するのは対外的に国家主権を代表する意味での主権者である。主権者は国家の構成員たる国民によって権威付けられて行為をする(権威づけの論理)。したがって、主権者は国民にとっての共通な力となる。しかし、この権威づけの論理によって、国民は主権者が公的な立場を代表することを認め、それに伴って、主権者の行為は国民を拘束し、公的サービスを単に受益する私的な存在でしかなくなる(権威の絶対性の主張)。

 ホッブズは、自由な個人を基礎にした近代国家の創造を目指した思想を展開したが、中央集権的な統治体制と官僚支配の擁護や独裁政治の擁護という危険な側面を有する。